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ヘルニア。狭窄症。肩こり。腰痛etc…病名という名のレッテル。

私たちの生活で、名前はきってはきれないもの。

周りを見渡せば全部に名前がついています。

イス。テーブル。鳥。海。山。〇〇くん。〇〇さん…
肩こり。腰痛。ヘルニア。狭窄症。五十肩…

名前をつけるとイメージがつながりそれを認識できる。

とても便利なものです。

ただこの名前というレッテルははたして絶対的なものでしょうか。

名前によって刷り込まれたイメージは良くも悪くもひとつの観念として定着してしまいます。

そしてこの観念。

これもひとつのこりかたまった個人的ものさしとして「良い悪い」の判断材料となります。

僕はあの人が好き。
私はあの人が嫌い。
私はこの音楽が好きだけどあの人の好きな音楽は嫌い。

学校の先生が正しいというからこれは正しい。
お父さんやお母さんがいうからこれは絶対に正しい。
テレビでやってたからこれはこうに違いない。
私の好きな人がいうから私はこうでなきゃいけない。

すべて「名前」というレッテルからはじまりイメージとなり、それが個人的物差しとして人生を「好き嫌い」や「良し悪し」ではかってしまう。

学校の先生や病院の先生、親など社会的権威のある人たちのいうこと、教えられたことが絶対的な物差しとなってしまう。

だけどそれは本当に絶対的なものでしょうか?

盲信して従うべき「常識」でしょうか?

それならば、いま私たちは誰の人生を生き、誰のために生きているんでしょうか。

これはとても危ういことです。

たとえそれが「本人のため」良かれと思い教え伝えていることだとしても、それを絶対的なものにしてはいけない。

この子は勉強ができないから…
この子は足が遅いから…
算数が苦手だから…
食べるのが遅いから…

とくに尊敬する人にいわれることは無意識に刷り込まれてしまいます。

それが幼少期から大人になるまでずっと続くとしたら、はからずもそれがその人個人を形成してしまう。

病名もそう。

たまたま病院に行ったらヘルニアだ、狭窄症だと診断された。

「あなたは狭窄症だから、しっかり治さないと歩けなくなりますよ」

それが医者として親切心でいうのかそうじゃないのかは別の話。

そんなことよりも、権威のあるお医者さまがいう軽はずみな言葉にどれだけ人の心がおびやかされるか。

「ある常識は誰かにとっての非常識。」

国が違えばそこに特有の常識があるように、宗教や教育、コミュニティから家庭にいたるまで私たちはひとつの組織のなかの常識という檻に縛られています。

腰痛ひとつにしても国を越えれば日本とは違う見方、とらえ方があります。

なによりも最新の科学は人間の頭では考えられないような、これまでの常識をこえた世界の叡智を認めています。

名前をつけることからはじまり、学校や親に学んできた「常識」という物差し。

もしその狭い視野の世界がすべてだとしたら極論、生物の進化はそこで終わってしまいます。

はるか昔から生物は「進化、拡大」だけを続けてきました。

やがてそれが我々人間というものにまで発展した。

話を最初にもどすと、「名前」をつけるのは人間だけです。

もとい、名前をつけたがるのが人間です。

それは便利なものでもあり、なにかの判断材料となる危ういものでもある。

この名前からレッテルをはり好き嫌いをわけ人を隔てる。

物事の良し悪しですら隔て壁をつくる…

もっと大きな視野で世界を見渡したとき、先生や親、名前や常識というものの見方が変わります。

自分の人生は自分で選ぶこと。

それは誰にも侵されることのないかけがえのないものであり、誰の色にも染まらないただひとりのものです。

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